大村虔一さんが語る『プレーパークのはじまりと思い』

【編集部より】機関紙プレせた16号に掲載された、大村虔一さんの講演をお届けします。プレーパークのはじまりについての貴重なお話です。


 

日本初めての常設の冒険遊び場、羽根木プレーパーク。その開設につながる遊び場づくりは”大村虔一・璋子夫妻”の呼びかけによって始まりました。日本の冒険遊び場の父、大村虔一さんをお迎えして、30年前、どのようにプレーパークが誕生したのか? 当時の様子や、その時の思いについてお話をお聞きしました。

スクリーンショット 0030-07-06 12.12.34

●親になったことが始まり

璋子と私は東北大学で知り合い1964年に結婚した。璋子は福島県で教員をしていたが、結婚して和光学園の英語教員になり、朝が苦手な璋子のために経堂に住むことにした。それで結果的に世田谷でこういうことが始まったともいえる。66年に長女が生まれる頃から子どもの育つ環境が自分のころとは大幅に違うことに気づいた。それまでに「子どもが育つ」という視点からまちづくりが語られたことは無く、これは大変なことだと気づいたのが20代後半だった。

「都市の遊び場」の翻訳

65年私は(株)都市計画設計研究所を設立した。これは行政が行ってきたことを民間でやろうという新しい試みの会社だった。一方、璋子は子育てと教員の両立などに疲れて苛立ちを募らせ、その中で本当に自分のやりたいことは何かを探していたように思う。私は好きなことをしていて仕事もまだ不安定だったので、そんな璋子に申し訳ない思いもあった。

その頃、私がアメリカに海外出張したおりに買ってきた本の中にレディ・アレンの”Planning for Play”(都市の遊び場)があり、二人で読んで「自分たちの子どもの頃と同じようなことをやらせられる国があるんだね」と話した。鹿島出版会が都市計画について翻訳する本を探していたのでその本を勧めたら、話が決まり、その翻訳を引き受けることになった。璋子が先行して訳し、私が建築、都市計画の知識で検証するという役割分担。わからないことが多く、時間を要したが1973年、2000部刊行し、程なく増刷の相談があった。この本は現在復刻されることになっており、私も嬉しいし、璋子が生きていたら大変喜んでくれたと思う。

 レディアレンは造園家で、英国児童法などの独自のキャンペーンで世論を高める力のあったなかなかのおばさん。本の中には心に残るさまざまな言葉がある。また各章のなかにいろんな人の言葉が引用されているが、好きな言葉はキーツの「体験されるまでは、何事も真実にならない。」などがある。

 

●本で読んだ遊び場を訪ねる

 1974年、アービッド・ベンソン著「新しい遊び場」を刊行。書評には遊び場の問題を広く社会の<7月20日羽根木プレーパーク誕生祭にて>問題と捉え指摘するようなものもあり、想像を超えた反響に大変勉強になった。その年に、子どもを母に預けて二人で3週間渡欧した。アエロフロートの格安切符で。璋子は機内の鶏肉で蕁麻疹にかかり大変だった。スウェーデン、イギリス、スイス、オランダを巡り、ロンドンのレディアレンの自宅も訪問した。彼女の運転するミニでチェルシーの障害児の冒険遊び場などを見学し、子どもの姿も特別に撮影させていただいた。プレーパーク入口の「NOADULTS」の看板など、興味深いプログラムがあった。こうした膨大な量のスライドを、小学校やアパートの踊り場で上映した。自分たちの子どもの時はまだ戦後で貧しい中だったが面白く遊んでいた。それはもう無理だと思っていたのに先進諸国はそれを維持しようと努力している。驚きだった。なぜ自分たちにできないのかとさまざまなところに働きかける動きが始まった。近年、30年経って再びこれらの遊び場に出かけたが地元の人たちがしっかり、大人の仕事として続けているところは元気がある。

●ただ学ぶのでなく実践の時

 その後他の本の翻訳などを勧められたが、翻訳より実践の必要があると感じた。今から考えると若気の至り。けれど1冊の本を訳したことで、璋子にとってはほとんど一生の仕事になっていった。私は1970~74年にかけて、東京都と港区の委託で、ある地区の再開発計画策定に加わったが、住民、行政、ディベロッパー、政党系などの思惑が重なり住民の意向とは関係ないところでまちがつくられていくのを目の当たりにする。まちづくりに住民の意向が反映されるシステムをつくらなければ、そして自分もコンサルタントとしてでなく住民としての活動をしたいと思っていた。それが「何とかしようよ」と思った人たちと一緒になって経堂・桜丘の冒険遊び場づくりになった。

 75、76年の7月~9月に経堂子ども天国を、1977の7月から翌年9月までの15ヶ月間桜丘の冒険遊び場を開設した。地域住民が空き地を借用してのボランティア活動で、主催は「あそぼう会」。費用は寄付・バザー・廃品回収で捻出し、プレーリーダーは学生のボランティアだった。子どもに楽しい体験をさせたくて行ったことだが、大人も社会を変える仕事を十分楽しんだ。会計は本当は大蔵省といいたいところを「くらなししょう」と名づけるなど楽しく取り組んだ。大臣は璋子さんだったので・・お手伝いが集まった(笑)。

 期間が終わったら返さなければいけないのでセメントは使えない。プールも砂場も廃材などでみんなでつくった。リーダーハウスは日大と農大の学生が設計したが、区に確認申請を出せと言われたというので、「どういう大きさでどういう形の建物になるかはもらった廃材によって決まるので図面は書けない。どうしてもというなら建て終わった後でお届けするとなるがよいか?」と話し、実現可能となった。近所の人の協力でプールの水をためてもらったりした。

 プレーリーダーと子どもたちがカレーを作ったら、カレー粉を入れる前からカレーのような・・食べて欲しくないと思っているとそんなときに限って子どもはたくさんおかわりしたり・・大盛況のはらはらドキドキのパーティーになった。人間の胃袋は意外に強いもんだ、と感じた。リーダーハウスをつくったときに子どももつくりたいということで、「子ども分譲地」を設け小屋づくりをはじめた。火事が起きたら、などの心配もあり、毎晩大人と子どもで火の用心の夜回りもした。それにまたうるさいと苦情が来たり。

 期間の終わりには星を見るということで小屋にお泊り会をした。お別れのときに「また来年もやるから」と約束して1ヶ月かかって更地にした。

 一年間やろうとした桜丘冒険遊び場では3ヶ月間ではできない遊びができた。当法人理事の齋藤啓子さんたちがつくった「続けて遊べ子どもたち」という冊子にこのときの様子が載っている。学生もそういう仕事をする中で、人間が育ち変わっていく。こういうことに関わるようになって社会のことを本気で考えるようになる。現在は常駐プレーリーダーがいるが、若者を育てる仕組みとしてこうしたボランティアの受け入れを考えてほしい。この遊び場は読売新聞の社説に取り上げられ、社会的にも意味があると勇気付けられた。


●羽根木プレーパーク開設へ向けて

 1978年桜丘冒険遊び場の終了に伴い、私たちは行政との連携を重視し、公園内で遊ぶ(プレー)公園(パーク)の実現へ向けて活動をすすめた。あそぼう会の顧問だった本田三郎さんは造園学会でも評価が高い方で、当時区の公園課の係長だったが、公園の中で遊び場を行う難しさを知っていたと思う。二人で世田谷の都市計画審議会の会長だった造園学会の大ボスの佐藤昌さんの家に行って話したとき、佐藤先生は大賛成で「ぜひやりなさい。今までのような公園のあり方ではだめだ」と話してくれた。また愛育病院の院長さんに遊びの大切さを講演してもらった。本田さんは公園課のバックアップのためにお墨付きをとりたかったように思う。

 そして79年、国際児童年の事業として羽根木プレーパークを開設することになった。2月にIPAのオッター事務局長が来日し、日本支部の設立を要請、会員集会で支部を設立し、代表は璋子に決定した。本田さんはオッターさんの来日を活かし、梅まつり会場に招いて世田谷区来訪のVIPに贈る記念盾を贈呈し、そこで国際児童年でプレーパークを開催することを話し、素晴らしいと評価された。

 当時朝日新聞文化欄「論壇時評」で松下健一さんがそれまでの活動に対し、「・・私たちはここで新しい文化形成の原点をみつけることができる。つまり各世代間の個人として自由な交流による、市民文化の形成という視点である。それは当然行政依存ではなく市民自治を土台とする自治体レベルからの政治の再編につながる」と書いてくれた。市民の側から「必要だからこういうことをして欲しい」と政策の再編をしていくこと、公園の使い方も地元の人が決めていくことが大切なのではないかと思う。

●1980年からは区の施策として

 私が区の公園課の方に海外例のスライドを紹介したその後で、本田さんは「私は本当にこれがやりたいだ」んと。「なかなかうまく行かないかも知れないけれど、何か問題があったら私に言ってくれ。何とかやりたいから協力してくれ」と挨拶した。反対者もいるなかでなかなか凄みのある言葉だった。また本田さんと町内会の役員、PTA役員、学校長、民生委員などをまわった。代田区民センターで何回も会議を持って、近所の人に集まってもらい、お手伝いをお願いした。それが羽根木プレーパークを運営する人たちになった。

 公園課から「子どもの木登りは困る、危ないし、木も大切だ」と言われるなど、様々な議論があった。安全のため毎日ロープをとりはずして倉庫にしまって帰った。火も使うときは消防署にそのたびに申請した。そうしたせめぎあいの中ではじまったプレーパークだ。子どもがネットから落ちて骨折事故があったときは、わざわざそういうものをつくらなくても?という議論があった。

 そういうところで「自分の責任で自由に遊ぶ」という言葉がでてくる。いろんな場で責任転嫁風潮があって、それを回避するために行政や学校が問題が起きないように規制してしまう。子どもが遊べなくなる一因だと、シンポジウムを開催した。そのときに、無過失賠償保険(過失が無くてもお金が支払われる)がいいという憲法学者の説があったが、何年間か民間の遊び場をやっていた経験から、自分の責任でリスクのあることをやっていくことを考えざるを得ないのではないのではないか、と思った。その辺の自己責任による自由獲得という話をもっと大切に扱うべきではないかと。そういう話の中で、羽根木では「自分の責任で自由に遊ぶ」という言葉が選ばれ、これはその後のこの種の遊び場の原点になったと思う。もっとも、当然教育の場などで子どもが怪我をした場合、無過失でお金がでるようにというのは片一方で必要であると思うが。

 プレーパークの運営は当時は実行委員会と呼ぶ地域の人たちが行っていた。また児童課、公園課、地域福課、社会教育課に我々が入って最終決定をする運営委員もあった。そこで社会教育課から「飯ごう炊さんの練習などのため、もっと火をたけるようにしてもらえるとありがたい」と言ってくれた。なかなか許可してもらえなかったが、この程度なら心配しなくてよいということが公園課の方にもわかってきた。そうするうちに火をたけるようになったし、安全なロープは吊るしておいていいようになって、現在の状況になってきた。地域の人が集まってきて火の周りで話ができるというような雰囲気ができてくる、年に何回かのイベント等を通じて地域の中でこなれていく。ロンドンのように塀で囲うか、オープンスタイルにするかというのは思案のしどころであったけれど、日本では自由に出入りできる、まわりから見えるというほうがいいだろうということを選択してきている。実行委員会が状況を判断しながら問題を検討して、現場でどう対応するか、行政にどう話をしていくか考えながら、プレーパークは動きをつくりだすようになる。

●ボランティア協会と

 1975年、経堂の遊び場にヒッピーを思わせる青年が来た。その人は澤畑勉さん。世田谷の市民活動を盛り上げるのに大きな力があった人で雑居祭りの企画をした。福祉関係の人だが「自分で思ったことを自分でやるのがボランティアだ」と彼に教えられ、ボランティアに対するイメージが変わった。1975年は区長の公選が始まった年でもある。いろんなところで古い体質から新しい動きが出てきたが、世田谷区ボランティア協会の立ち上げの動きもその一つ。設立には澤畑さんも噛んでいて、私も設立準備会のメンバーになり、そのあたりからボランティア365の話が出て、羽根木の初代常設プレーリーダーとなった天野秀昭さんが登場する。

 ボランティア協会は1981年に設立され、私は副理事長になった。プレーパークの増設に伴い,事業をボランティア協会で受託することになりボランティア365を終えた天野さんがボランティア協会の非常勤職員となり、その担当についた。この後の話は天野さんに聞くとよくわかる。私は経堂時代から約10年間代表役をやったが、この取り組みがうまく行ったことに天野さんの力、存在は欠かせない。彼を中心に盛り立てて、地域の人が応援することで、しばらくは維持できるんじゃないか、だったら最低彼が飯を食えるようにしなきゃいけないんじゃないか、とこういう動きをした。プレーリーダーを増やしていくには、プレーリーダーで食える状況をつくらなきゃいかなければならないと、現在も冒険遊び場づくり協会にもかかわっているわけだが、残念なことにまだ実現できていない、今後も努力する必要があると思っている。

●冒険遊び場では・・・

 冒険遊び場では、自然や、地域社会、人々の刺激といった環境刺激が豊富で、それが子どもに入ってきたときに、子どもは個人の直感で主体的に反応する、という構造だと思う。そこには道具や火を使って遊んだ体験を通した本当の知識と行動性を取得するチャンスがある。今、一生懸命教育をされたけれど自分はどんどん虚しくなっていく、そういう人が増えているように思う。それは残念なことに、「自分でやった」という面白い人生を送ってきていないところに大きな課題があるのかもしれない。そういう体験を与えていく仕掛けを考えなければいけないのではないかと思っている。

 人間が数十万年かけて、生きるため、子孫を繁栄させていくために、採集や狩、農耕などの文化をつくることを通じて身に着けてきた、知識や技術のエッセンスがある。火をたくことや道具を使うことは、最近はどんどん機械に置き換わっていって価値がなくなっていくようだけれど、元の考え方を整理するために重要であり、そうしたものに触れるのは大切な体験だと思う。遊びがもたらす喜びというのは歴史の中でわたしたち人間に刻まれたわくわくした記憶をよびさますのだろう。何かをやって得る喜び、自分の体験を人類として後輩に伝えていくのは重要なことだと思う。

●子ども時代というのは・・・

 自分の子どもの頃は、朝目が覚めると、昨日の楽しい思い出に心が躍って飛び起きた。朝ごはんもそこそこに昨日の名残の場所、または友だちを求めて急いで外に飛び出す。学校だって、始業前缶けりで遊ぶんだから早く行きたくなる。・・子どもが生きていて、楽しく毎朝目が覚める、面白いこと、楽しいことがある、今日一日やってみたいことがある、そういう体験をさせのるがとても大切なのではないかと思う。今受身の生活を強いられている子どもたちに、自分の意志で行動する楽しみを味あわせたい。それは生きる力であり、それを身に付けさせたい。あなたのまちにぜひ冒険遊び場をつくって欲しい。30年前よりも今になって、冒険遊び場を広げたいという思いは強くなっている。(首藤)

 


都市の遊び場

91MfjqfqwXL

アレン・オブ・ハートウッド卿夫人 著、大村虔一、大村璋子訳

「冒険遊び場」の原点。都市の子供の遊び場を豊富で自由なものにする、世界中の意欲的な遊び場の実例を集めた本書は、専門家のみならず親世代の関心も呼んだ。子供が人としての生きる力をつける「遊び」の充実とは―、待望の復刻。

 

 

投稿日は: 2018年7月6日 12:27 PM