遊びを学ぶ!プレーパークせたがや

これまでの歩み

1977年、プレーパークの前身「桜丘冒険遊び場」の風景

プレーパーク前史
1975 年~ 1978 年

わが子の遊ぶ様子から子どもの遊び環境に疑問を抱いた大村虔一・大村璋子夫妻が、欧州の冒険遊び場に感銘を受けこれをいろいろな人に紹介。それをきっかけに遊び場を自分たちの手でつくろうとする住民が集まり、「あそぼう会」を結成。この年と翌76年の夏休み、世田谷区内の烏山川緑道の一角に「経堂こども天国」を開設した。
さらにその翌年、整備のため使えなくなった烏山川緑道に代わる新しい場所を見つけた住民は、「子どもの遊びは日常のもの」との考えから毎日の遊び場開園に挑戦。15カ月間にわたり「桜丘冒険遊び場」を実践した。住民などボランティアの手だけで運営されたこの期間の実績が世田谷区を動かすことになった。

経堂こども天国(1975、76年 夏)

羽根木プレーパーク開園
1979年7月~

IPAオッター事務局長(前列左)、世田谷助役(前列右)、 公園課本田係長(後列右)、大村虔一(後列右から二人目) /1979年梅まつり

国際児童年のこの年、区は記念事業に冒険遊び場を採択。地域住民と共に区立羽根木公園の一角に羽根木プレーパークを開設。
翌80年には専任のプレーリーダー(現在はプレーワーカーと名称変更) を得て、日本で初の完全常設型のプレーパークが誕生した。

1983年、羽根木プレーパーク「どんぐりの会」の活動

世田谷プレーパーク
1982年6月~

プレーパークの持つ多様な可能性を認めた区は、プレーパーク増設の方針を打ち出す。
それを受けた住民が、区立世田谷公園の一角に世田谷プレーパークを開設した。

駒沢はらっぱプレーパーク
1989年4月~

自分たちの地域にも自由な遊び場をと願う住民が私有地を借りて84年に始めた活動を、区がこの年事業化、3番目のプレーパークとして常設し新たなスタートを切った。

冒険遊び場全国研究集会
1998年11月開催

羽根木プレーパークの20周年を記念して、遊び場に興味を持つ全国各地の人に呼びかけ開催した。
これは後に「IPA日本支部冒険遊び場情報室」を経て「日本冒険遊び場づくり協会」誕生へとつながった。

烏山プレーパーク
2003年4月~

95年、児童館の学習会に集まった住民は4番目のプレーパークを目指し場所を探しながら活動を続けていたが、この年、区が土地を確保。プレーパーク事業としてスタートを切った。

NPO法人プレーパークせたがや
2005年2月設立

羽根木プレーパーク、世田谷プレーパーク、駒沢はらっぱプレーパーク、烏山プレーパークの4プレーパークがひとつのNPO法人(特定非営利活動法人)を立ち上げ、世田谷区からの直接委託関係になる。

プレーカー
2008年~

プレーパークのない場所でも子どもたちが自由に遊べるよう、プレーカー事業を開始。2015年4月に世田谷区自然体験遊び場事業(補助事業)となる。玉川野毛町公園、次大夫堀公園、二子玉川公園は地域ボランティアとともに運営、その他学校や地域からの要請を受け、遊びを届けている。

遊びの出前・プレーカー

羽根木公園売店「はねっこ」
2009年4月~

羽根木公園内にあった売店の撤退により、子どもたちの通学路が薄暗く不安だという地域住民や近隣PTAからの声を受け、世田谷区公園緑地課とNPO法人プレーパークせたがやが協議。子どもの見守りと地域コミュニティづくりのため、売店「はねっこ」の運営を開始

羽根木公園内の売店「はねっこ」

そらまめハウス
2011年~2014年
建設・自主事業運営

09年より、厚生労働省、国土交通省、世田谷区児童課、世田谷区公園緑地課、せたがや子育てネット、日本冒険遊び場づくり協会、専門家とともに「屋外型の子育て支援拠点」について研究。
10年、「世田谷まちづくりファンド まちを元気にする拠点づくり部門」の助成を受け、「乳幼児親子と多世代の交流拠点」として羽根木プレーパーク園路側に建物を建てる。11年4月、世田谷区公園緑地課より設置管理許可を受ける。乳幼児と多世代の交流拠点「そらまめハウス」と名付け、4年間自主事業として運営を続けた。

そらまめハウス1周年セレモニー(2012年4月)

そらまめハウス 
2015年4月~
 「おでかけひろば」認定

4年間行政に働きかけ、そらまめハウスが、世田谷区地域子育て支援拠点事業「おでかけひろば」(補助事業)となる。 屋外型の「おでかけひろば」として、世田谷区全体に外遊びを普及するための拠点の機能も併せ持つ。